安藤四一著「コンサートホール音響学」(序文)

1.序/紹介


「音場シミレーションシステム」や「音場測定システム」は良い音のコンサートホールをつくるためのコンピュータシステムです。良い音のコンサートホールを科学的なアプローチでつくるとすればこの程度のシステムは最低限必要ですが、意外と存在しませんでした。コンサートホールは音楽的教養や文化そのもののため、人々の社会のために作られます。しかし、そういったところで、科学的理解と資金のかかるシステムを利用するのは、全てが簡単で単純な方向に向かっていくなかで、贅沢な話かもしれません。この数セットのコンピュータシステムが日本最大の建設会社の中で、日本的なほとんどの代表的なホールの設計にはじまり、ドームスタジアムや、長野の冬季オリンピックの競技場のようなところまで、すべてに活用されていますことは、大変な喜びでした。これは社会の人々の文化と、良い音楽を聞きたいというような、そういう人間の感性を重視するための、コンサートホール音響学のためのコンピュータシステムです。

2.音響理論の紹介

このシステムは、全ての理論、そのアルゴリズムを、ここで紹介する神戸大学の安藤四一教授による「コンサートホール音響学」を教科書としています。以下にその一部を紹介させていただきます。

akahon.gif (5402 バイト)

邦訳)コンサートホール音響学
安藤四一(訳:岡野利行)
シュプリンガー・フェアラーク東京, 1987.

"Concert Hall Acoustics"(1985)の日本語訳版であるが、付録として音響基本設計例を加筆している。(158頁)

人類の誕生に伴って会話によるコミュニケーションや音楽が始まり、これがいわゆる音響学の始まりでもあった。その会話や、音楽などのメッセージを、より効果的に伝えるために必要な環境も音響学の対象である。われわれは,聴覚を通して,音声信号や音楽信号を知覚するが,物理音響学的な現象との関係はいまだ解明されていない。たとえば、コンサートホールの音場としてはどのような音場がよいか、という問いはこの問題の複雑な一面を示している。つまり、実際に音楽を聞いている場合を想像してみるとわかるように、我々の主観的印象が強すぎるために、この問いに対する適当な答えを見つけることは難しい。そのために、コンサートホールの音場に影響を及ぼす全ての物理的パラメーターを知ることがどうしても必要となる。
1996年、Schroeder [M.R. Schroeder: Science 151, 1335-1359(1966)] は ”建築音響“ と題する論説を発表している。そのなかで、ある一定レベルの音響的質を保証するような音響設計が出来ないのは,より基礎的な研究が欠落しているためであるとして、その必要性を説いている。

推薦の辞

1962年、フィルハーモニック・ホールが、舞台芸術のための総合施設群として建設されたリンカーン・センターの最初の柿落としとして、最初の主演者(Leonard Bernstein)の指揮棒の下に、合衆国のファーストレディの臨席を仰ぎ、音楽界に披露されたとき、その音響への期待は最高潮に達していた。北部ブロードウェイのそのホールは、L.Beranekにより世界の音楽ホールで事細かに集められた周到なデータに基づいていた。ところが、彼の音響指導にもかかわらず、何かいまひとつ物足りないものがあり、やがてそのホールに寄せられた期待は灰燼に帰した。
それは、いわゆる“暖かさ”“親密さ”―不思議に、これらの用語は、もう1つの人間のくつろぎを連想させる―に欠けていた。エコーも聴こえていた。しかも、はそのエコー音楽的バランスについての経験則ではなく、もっと明確な原因から起きたものだった。
すなはち、ホールの後壁にあった。さらに、音楽家も黙っていなかった。彼らは、お互いの演奏がいつも十分に聴こえないので、アンサンブルが困難だと批判した。
マンハッタンのカクテルパーティーの会の設立ともあいまって、市民にも自然と噂が広まり、やがてフィルハーモニック・ホールは、多くの人の嘲笑の的となった(そして、「ニュー・ヨーカー」の記念碑的風刺画のやり玉ともなった)。
George Szell―活躍中の指揮者の中でも一番口やかましい人―は、ホールの外観を銀行に、内部を映画館に喩えた。彼はもっと“微細な拡散”を要求し、天上の音響パネルをドイツ語で「証明器のヘソをもった、腹ぼてガエル」と罵った。
このような苦情の不協和音の中、リンカーン・センター当局は、ブロードウェイ南にある知力に豊んだ隣人たる、アメリカ電話電信会社(AT&T)に技術上の助言を求めた。AT&Tはベル研究所に要請し、著名な物理学者で、前カリフォルニア大学ロスアンジェルス校学長であったVern Knudsenを委員長とする4名の“専門家”の委員会への参加署名を求め、新しくホールを建て直す以外に何が為し得るかを調査させた。
この救済任務を受けたベル研究所の委員は音響測定により、物理的実態とその潜在的な心理的意味を確かめた。その第一ステップとして、コンピュータにより発生させた試験音とディジタルフィルタによる新しい測定法が、ホールの音響的レスポンスの時間的、かつ周波数的に高精度なものを目指して開発された。この測定法により、天上パネル(浮雲)による反射音には、音楽にとって重要な低周波成分の大きな減退が起こっていることが判明し、同じ効果は、ゲッティンゲン大学のE.Meyer, H.Kuttruffによる模型実験でも確かめられた。
この浮雲は最初のコンサルタントによって、直接音と後続の残響成分との間にある“初期の”反射音を補間するという明確な目的のために採用されたものであった。しかし、その浮雲の大きさと形は、低音の反射には不十分であった。
さらに、規則的で結晶格子のように天井に沿って編成された配列は、近接した低周波の相殺的相互干渉を招いた(聴衆の中には、チェロ奏者が猛烈に弾いているのにもかかわらず、楽器からは、それに相応する音が出ていないのを“無声映画効果”だと不満をこぼした人がいたことは疑う余地もない)。
この第1天井反射音の低音不足により、もう1つ低音域の欠音が、G.M.SesslerとJ.E.Westによって指摘された。それは、座席列上を直接音が擦過する際に起きる直接音の超過減衰である(この座席の効果は、主フロアが十分傾斜していない他の多くのホールでも起こることだが、初期の頭上方向からくる反射音の低周波成分があるため、通常はっきりとはわからない)。このようないくつかの減衰の結果、100Hz-250Hzの帯域にある低い音楽が、それ以上の周波数に比べて、主フロアの座席の大半で15dBもの落ち込みがあったのである。
しかしながら、少なくとも1箇所は優れた座席があった。それは第2バルコニーの“A15”(旧名称。座席の番号付けは幾度か変わった)であった。測定が開始されるまでに、案内役のジュリアード音楽学院の学生が、彼らなりに最善の席を見つけ出してくれた。果たせるかな、測定でも、“A15”は、抜群に良い結果で、低音と高音との15dBの差は2dB以内になっていたのである。
しかし、ここにもう1つ、予期せぬ天井パネルの効果があった。その反射パネルが補間した初期反射音のことごとく、受聴者の両耳に、ほぼ、同時に到達していたことであった。
これによる側方反射音不足の心理的効果として音楽にとって望ましい包み込むような感覚よりもステージで放射された音から“分離”した感じとなった。
コンサートホールの音響学上の基本的問題を解決するために、1969年、下記の学者らが、西ドイツ科学財団に対し、コンサートホールの物理的パラメータと、主観的性質との相互関係に関する基本調査を行うための援助を要請した。その調査は、ゲッティンゲン大学第3物理研究所の研究者―D.Gottlob、K.F.Siebrasse、U.eysholdt、そして日本の神戸大学からフンボルト基金奨学生としてこのグループに参加した安藤―によって行われた。
B.S.Atalと筆者が開発した新しい方法を用いると、異なるホールの音楽的性質の信頼性の高い主観評価が可能になった。さらに、P.Damaske、B.Wagener、そしてV.Mellertが改良を加え異なるホールで演奏された音楽を、無響室内で忠実に再現させた。この方法を使うために、2チャンネルのKunstkopf(“ダミーヘッド”)録音が、各ホールの評価すべき“特定”の座席において行われた。これらの試験に用いた音楽の“入力”には、BBC交響楽団が提供してくれた無響室での録音を使った。同様な試験は、ベルリン工科大学、L.Cremerの音響技術研究所出身のG.Plenge、H.Wilkens、P.Lehmann、そしてW.Wettschureckらによって、“生の”音楽で行われた(もちろん、完全な再現性はなかったが)。
20箇所程度の異なるホールで収録したテープは、もとのダミーヘッドの耳における信号が、スピーカの前方定位置に座った受聴者の耳で再生させるように電気的に処理された後、2つのスピーカを通じて再生された。こうして、受聴者は異なるホール間の比較を繰り返し、同時に行うことができた。この方法を用いると、例えばウィーン音楽協会大ホールと、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールにあるような音場の顕著な相違が、感動的に現われてくるのである。しかも、非常に微妙な音響上の違いでも、この直接比較では簡単に感知することができる。遠く離れた異なるホールの空間的隔絶が遂に克服された。それら全てが1つの実験室に集められたのである。
語義の誤解による主観的評価の偏重を避けるため、意味のはっきりしない形容詞は、慎重に排除され、座席(同じホール、あるいは異なるホールでの)各対の評価は、単純に「好ましさのテスト」とされた。主観的印象を“甘い(sweet)”、“乾いた(dry)”、“冷たい(cold)”、“暖かい(warm)”、“豊かな(“rich”)”、“狭い(narrow)”、“明瞭な(clear)”、“親密な(intimate)”といった曖昧模糊とした言葉で表現するのではなく、受聴者は単に、条件AかBのいずれがより好ましいかを答えればよいのである。このようなプリファレンスの判定が何百回と行われ、ベル研究所のdonglas J.Carrollにより開発された多次元尺度法によって処理され、3次元のプリファレンス空間が構成された。そのデータは、空間的に2つの主な次元を表した。それは「プリファレンスのコンセンサス」と「プリファレンスの個人差」である(第3の次元は本質的に“雑音”であった。)。この空間布位は。受聴者の語義上の偏りのない音響的好み(プリファレンス)を表すだけでなく異なった音楽上の好みも十分に表現できる。
このプリファレンスデータと、異なるホールの“物理的”パラメータとの相関を見ると、残響時間と他のよく知られた効果、すなわち、「両耳間の非類似度」がプリファレンスを支配するもっとも重要なパラメータであるとわかった。つまり、両耳の信号の非類似度が大きければ大きいほど(例えば、古典的な幅の狭い、天井の高いホールがそうであろう)、「個人の好み」とは独立に、プリファレンスのコンセンサスが大きくなるのである。
最近の幅の広いホールが低いプリファレンス順位であると表されたが、このことは上に述べたように、幅の狭いホールでは側方反射が早く、より強く到達するためであることが確かめられた。これより先に初期側方反射音の重要性は、A.H.MarhallとM.Barronらによっても、それぞれ独自の研究で強調されていた。側方反射音が大きければ、より大きな(つまり、このましい!)両耳間の非類似度が得られ、その結果音楽と乖離しているのではなく音楽に「包まれた」感じとなる。
このことは、次にゲッティンゲンで数年にわたり行われた主観評価実験の主な結果であった。さらに、現存するコンサートホールをアナログ技術とディジタル技術による改善によって創られた音場での多くの実験が付け加えられた。ディジタル技術による改善とは、側方反射音が不足している幅の広いホールのインパルス応答に、コンピュータ上でシミュレーションした側方反射音を付加し、そのインパルス応答に音楽を畳み込んで主観評価を行うものである。実際に、これらのテストでは、側方反射音の付加以外は、全て同じであった。このように、我々はおそらく室内音響においてコンピュータによるディジタルシミュレーションの究極的手法を得ることができたと言えよう。
残された問題としては、過去の失敗の経験を生かし、いかに手痛い失敗を回避するかである。不幸にも比較的低い天井高で幅の広いホールが一般的である。つまり、大きなホール(そして幅の広い)と同様、天井高が高いホールがコスト高になることは注意すべきである。もちろん、有害な天井反射音はホール上部の重要な部分に吸音を施すことによって除去できるだろうが、特に、大きな近代的ホール―単一楽器あるいは人の声で内部が満たされているような―では、すべての“音楽(phonon)”が重要な役割を果たすため、消えてしまってもよい余分なエネルギはないのである。
このジレンマは1970年代に解決された。すなわち、必要な周波数帯域全体に出来るだけ広い範囲にわたって拡散する天井や壁の表面構造を用いるのである。その“反射位相格子”(物理学者は音を拡散し吸収しない構造をそう呼んでいる)は、意外にも数学の「数論」の分野から来ている。
このように、広い学問分野―ディジタル測定法、音場再生とシミュレーション、多次元尺度法、そして整数論―に由来する方法を用いてコンサートホールの音響学という“芸術”は、遂に信頼し得る科学のレベルにまでなったのである。
その間、数論を応用した音の拡散器(“平方余剰”または“原始根”に基づく)は、いくつかの新しいホール(またはスタジオ)で設置され、明らかに大きな成功を収めている。そのような拡散器を用いることにより、上からの強い鏡面反射(とくに、耳の鋭い音楽評論家の座席で生じやすい不快なエコーの原因にもなっている)でなく、特に高い周波数帯域で受聴者の側方から到達する“小”反射音となるように拡散できることが期待できる。
このような両耳に関わる問題は、本書の主題であり、単耳的基準によって詳細な考察が加えられ安藤によって開拓されたものである。
この単耳的基準は、設計が最適化されるような、音楽の時間的構造に敏感に依存するというものである。本書は音の伝搬に関する基礎、音場シミュレーション、そして測定法が、安藤のコンサートホールというカンバスに、芸術的直観による大雑把な画法でなく再現性のある結果とあう、鋭利な鉛筆で描かれた絵画のように仕上げられているものである。
本書は、音響学者、建築家、そして音楽家の方々に注目され、有益なものとなるだろう。

ゲッティンゲンとマレーヒルにて,1985年2月
M.R.シュレーダー

「コンサートホール音響学」安藤四一著(1987,シュプリンガー・フェアラーク東京)より全文引用


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